Jul 04, 2009
ホンファルエソチャンスをつかむ
ホンファルド本人よりも親世代の婚活の話題をグィエヘトスプニダ。 40代に入る前に、ちょうど結婚をしたいという、親同志が日本列島を駆けめぐり熱心にしています。仕事が忙しくて出会いのきっかけがつかめない方々に感謝の親です。ホンファルエソきっかけをつかむから、結婚まで到着することができるので、ホンファルエソの機会をつかむことです。私は自分の結婚式の時に多くの結婚式場を見に行きました。私の結婚式場を見るのは、礼拝堂です。チャペルが自分のイメージ通りかどうかの結婚式の画像が変わります。私は白いチャペルが良かったので、多くの結婚式場の中で熱心に選択しました。きれいなイャ良かったです。
NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」は27日、最終回を迎える。それにつけても、徳川家康を演じる北大路欣也の演技はしぶい。「狡猾(こうかつ)」ともみえる家康像だが、見事に演じきっている。親兄弟を人質に差し出し、時には見捨てる戦国の世にあっては、武将たちは現代とは違う規範に生きていた。狡猾さは、戦乱を生き残るすべであり、知恵でもあった。
家康を称して「鳴くまで待とう」の川柳で、「忍耐」があげられる。狡猾さと忍耐は、戦国期ではあわせ持つ一つの規範といえるだろうか。家康は、少年期から青年期にかけての約13年間、連続して2度の人質生活を送った。この時代と家康を感じるため、生誕の岡崎城(愛知県岡崎市康生町)を訪ねてみた。(中部総局 山根忠幸)
家康誕生で井戸から竜
地方都市として発展した岡崎市の市街地を貫く国道1号は、日中は渋滞のただ中にある。岡崎城は、その脇に静かにたたずむが、家康の生まれた城は現存しない。代わりに天守閣が昭和34年、ほぼ完全に復元されている。城は鉄筋コンクリート3層5階建て、内部は近代的な資料館だが、外観に往事を忍ぶことができる。
岡崎城は、別名「龍城」と呼ばれる。家康は天文11(1542)年12月26日、城内で出生。松平家8代目で17歳の広忠と15歳の於大(おだい)の長男で、城内の松並木には、産湯の水をくみ上げた井戸が、今も残っている。
「家康が生まれた瞬間、城内の別の井戸から龍が飛び出したとのいわれもあります。家臣は喜び、井戸は“竜ケ井”と名付けられたそうです」と岡崎城の藤原雅人上席係長は話す。
家康誕生の翌年には、種子島に鉄砲が伝来し、戦の形が変わろうとした時代であった。ちなみに、家康が生まれた年は、後に大きく人生が交差する豊臣秀吉が6、7歳(生年に2説)、織田信長9歳、今川義元24歳だ。当時、三河(愛知県東部)の松平氏は、東の駿河(静岡県中央)・遠江(とおとうみ=同県西部)をまとめる今川義元の実質的な庇護(ひご)下にあって、西の強国・尾張(愛知県西部)の織田信秀(信長の父)の侵攻を食い止めるのに躍起となっていた。だが、義元にとって、松平氏は強敵信秀への盾(たて)であり、いわば使い捨ての駒に近い存在。松平氏は、崖っぷちに立っていた。
裏切りの人質生活
家康6歳の年から、長い人質生活が始まった。3歳の時には、母方の実家が信秀方に組したことで、離別された母とは生き別れとなっていた。
信秀の脅威にさらされた広忠は、義元に加勢を要請し、受諾条件が家康を人質として差し出すことだった。だが、戦国の世。裏切りにあって、家康は逆に信秀の手に落ちてしまう。この辺りの事情を「天下のご意見番」で今に知られる2000石の旗本、大久保彦左衛門が寛永3(1626)年ごろにまとめた「三河物語」では、次のようにつづる。
「広忠ハ四方に五つ六つ之取出ヲトラレ給ひて、一国一城にナラセ給えバ(広忠は、周囲の砦を落とされ、岡崎城だけとなった)」と、信秀に攻め立てられた広忠は、絶体絶命のピンチを迎えたと記す。そこで、義元に援軍を求めると人質がいるといわれ、これを受け入れた。「竹千代(家康)様御年六歳之御時、シチ物(人質)トシテ駿河え御下向被成ケリ(家康6歳の時、人質として駿河に向かうことになった)」としたうえ、西之郡(現愛知県蒲郡市)から、三河湾を船で田原(同県田原市)に渡り、陸路で駿河に向かうことにした。ところが、広忠の後妻の父である田原城主の戸田康光が「永楽銭千貫文に竹千代様ヲ売サセラレ給いて、御舟に召してアツ田之宮(熱田神宮=名古屋市)えアガラセ給ひ(永楽銭千貫文で家康を信秀方に売り渡し、船で熱田神宮に送った)」などと説明する。
康光の行動は、機を見るに敏とも、裏切りともいえる。だが、結果、大切な人質の家康が敵方の手へ。信秀の降伏要求に父広忠は「其方え出シタル事ナラネバ、何ト成供、存分次第可有トテ(信秀に差し出した人質ではない。何なりと好きにしたらよい)」と毅然と突っぱねた。松平の跡継ぎであった6歳の家康は、父から見捨てられた。家康がこの時、何を考えたかは不明だが、権謀術策渦巻く戦国の非情な規範が、その性格の狡猾さや忍耐を生み出す下地になっただろうと推測できる。ここから、約2年間の織田方での人質生活が続く。
一方、義元は人質は届かなかったが、放置すれば広忠が信秀に味方してしまう可能性を否定できなかっただろう。このため、義元は広忠に援軍を送る。しかし、これによって、三河に今川軍が堂々と入り、織田方との最前線あるいは緩衝地帯となってしまった。
家康8歳の天文18(1549)年3月10日、広忠が家臣に暗殺された。三河物語では「広忠ハ其年二拾三にて御病死被成ケレバ、岡崎えモ駿河寄入番ヲ入れて持ケリ(広忠は23=正しくは24=で病死し、岡崎城は駿河から今川氏の武将が入って守った)」とするが、広忠の暗殺は史実で「病死」は後年、松平氏の体面をおもんぱかっての表記とされる。とはいえ、松平氏は当主と岡崎城を一挙に失い、9代となる家康は敵方の人質の最中。松平氏の悲劇はここに極まった。
少年期の家康の流転は、さらに過酷さを増すのだった。
【岡崎城】愛知県岡崎市康生町561の岡崎公園内に、岡崎城と三河武士のやかた家康館がある。入館料は、中学生以上が岡崎城200円、家康館350円。両館共通が500円。開館時間は午前9時から午後5時まで。休館日は12月29日から同31日。問い合わせは(電)0564・22・2122。交通アクセスは、名鉄の東岡崎駅から徒歩約15分。車は東名高速の岡崎インターから約15分。
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